プリズムの煌めきの向こう側へ

二次元アイドル・アニメ・声優あたりの話題中心で、主に備忘用のメモ

ガルラジとオタクの人生語りについて

みなさん、ガルラジ聞いてますか
2019年はガルラジですよ
もう残りいくばくもありません
ガルラジ聞くなら今、なんて甘いこともう言いませんよ。まだガルラジ聞いてない人たちは、このコンテンツの美味しいところ、もう逃してしまって、あとから聞こうとして後悔するフェーズに入りつつありますからね

と、いきなり脅しから入ってしまったの我ながら謎というか、筆が滑ってしまっただけですが


今回は、「俺、リアルタイムでこんな経験してるの初めてだわ」ってことを書きます。
またちょっとメタ視点での話になってしまって、申し訳ないってところもあるんだけど。

 

ガルラジというか、ガルラジストとか「ガのオタク」とか言われている、ガルラジリスナーの話
ガルラジって、アニメでもゲームでもなくて、ニコ生とYouTubeで配信されるラジオ番組といういささかニッチな形式であるし、内容もキャラクターがラジオをやるという、そこそこ実験的なものなので、そこに熱を上げるオタクというのも、層としては多少偏りがあるかもしれない、とうのは一応前提としておきます。

 

繰り返しになりますが、ガルラジは、キャラクターがラジオ番組をやるという、ちょっと変わったコンテンツです。
ラジオ番組というのは、パーソナリティがリスナーから送られてくる手紙を読んだり、なんか面白い話をしたりするアレで、普通は実在の人物がやるもので、フィクショナル・キャラクターがやるものではないです。
それを、キャラクターがやるというところに面白みがあるわけで、始まった当初は、キャラクターがどれだけラジオ番組をやっているのか、というところにフックがあったわけです。
つまり、キャラクターでありながら、本当にラジオ番組で喋っている風の演技をしている、ところがまず着目されました。
有り体に言えば「リアルな演技をしている」というところですが、このガルラジに宿っているある種の「リアリティ」を、誰が言い出したのか今となってはよくわからんのですが、ガのオタクたちは「質感」と呼ぶようになっていったのです。
もちろん、これはちょっと単純化しすぎで、演技「だけ」が注目されたわけではなくて、演技も含む諸々の何か、雰囲気など、もう少しごちゃっとしたものひっくるめて、オタクの耳目をひいたのであり、「演技がリアルだ」とかではなくわざわざ「質感」というワーディングがなされたのも、各要素への分けがたさがあったからだと思います。
また、「質感」を「リアリティ」に置き換えてよいのかという問題ももちろんあります。
いずれにせよ、ガルラジというコンテンツにいわく言いがたい魅力を感じたオタクたちがいたということです。

 

さて、当初はこの「質感」というのは、あくまでも作品に内在する性質に対して言われていたものだったと思います。つまり、ラジオ番組という形式、キャストのアドリブを含めた演技、隔週で進んでいくライブ感などです。
ところが、2018年末から始まったこのコンテンツ、早くも1月下旬頃には、オタクたちの間に新たなムーブメントとして「質感旅行」なるものが流行り出します。
これもまた有り体にいえば「聖地巡礼」なのですが、もともとラジオ番組なので、映画やアニメのような形でロケ地・モデル地はありません。
キャラクターたちが生活している(ことになっている)土地を訪れることによって「質感」を得る、ということが行われます。
ガルラジを知らないとよく意味が分からないと思いますが、ガルラジが、地方のSAを舞台としているのがポイントです。
チーム徳光が顕著ですが、要するに田舎で、まわりに何もない場所なのです。その景色を実際に見ることで、「地元から出たい、東京に行きたい」という手取川海瑠の叫びに、より感情移入できるようになるわけです。

こうしてオタクたちは、舞台となっているSAを実際に訪れることで、さらなる「質感」を得ているわけです。
ここで「質感」が供給される元が少し変わったことが分かります。
つまり、元々作品に内在する演技とか形式とかの要素に対して「質感」を感じていたのに対して、質感旅行をすることで、作品の外にある実際の土地の風景から「質感」を感じるようになっているという変化です。
実際の土地を見ていた経験を通じて、作品鑑賞により「質感」を感じるようになった、と言ってもいいかと思います。

 

さて、ここまでは前振りで、ここからが本題なんですが、ガのオタクたち、ここからさらに先へ進んでいきます。
ガルラジに、自分の人生を重ね始めるのです。
何を大げさな、と思う方もいるかもしれませんが、これは冗談なんかではないのです。
わかりやすいので、再びチーム徳光を例に出します。
先ほど、質感旅行によって「手取川海瑠の叫びに、より感情移入できるようになる」と書きましたが、ここで僕は感情移入をエンパシーの意味で使っています。
エンパシーというのは、相手がどういう気持ちになったのかを理解する、というような意味で、自分が相手と同じ気持ちになるということは意味しません。
つまり、手取川と同じ気持ちになったわけではないが、何故手取川がそういう気持ちを持ったのかは分かるよ、というある意味ではクールな態度です。
しかし、エンパシーにとどまらずシンパシーに近い状態になるオタクも増えていったように思います。シンパシーは、相手と同じ感情になるということで、日本語訳は色々あるのですが、この場合、共感あたりがよいでしょう。
実際に地方出身者で(手取川と同じく北陸出身の人とかもガのオタクの中にはいます)、東京ないし都会へと出てきたオタクにとって、手取川はかつての自分だったりするわけです。
もちろん、自分と境遇の似ているキャラクターに自分を重ねあわせて見てしまう、というのは、フィクション作品の受容としてはごく一般的なものだと言っていいと思います。わりと普通です。
しかし、自分が驚かされたのは、少なからぬオタクが、ガルラジを聞いたあとに、自分の来歴をtwitterやブログで語り出したことにあります。
特に、徳光第2シーズン第4回、岡崎第2シーズン第5回では、思わず語りだしてしまうというのが、放送終了後のタイムラインでつとに見られました。

 

ネットとかtwitterやっていると忘れがちになるんですけど、画面の向こう側にいる人たちは全国各地にいるわけですよね。
地震が起きたときとか、イベントの遠征とかである程度可視化されたりはするわけですが、ガルラジで見えてきたのは、そういうレベルではないんです。
個々人の人生と絡みついた状態での、それぞれの居住地や出身地に対する思い、みたいなものが見えてきます。

まあそこまでいかなにしても、色々な地域に住んでいる人たちが、それぞれに聞いているんだなっていうのが、実感として分かってくるのがなんか面白いです。

 

先ほど、エンパシーではなくシンパシーだと述べましたが、正確に言うと、ここもあまり単純なシンパシーというわけではありません。
ガルラジに登場するキャラクターたちの多くは10代です(でもそこに20代を、しかも大学生と既に働き始めている人を混ぜているのも、ミソなんですが)。
一方、ここであげているようなガのオタクたちは、もはや10代ではなく、学生でもない人が多い印象です。
ある意味では、既に通り過ぎてきた道でもあります。
そしてまた、これも当たり前の話なんですが、地方から東京に出てくると等しく言ったって、各人各様、そこに至る経緯や事情はみな違います(もっと言えば、ずっと地方住みで、東京や都市部に出てきていない人たちももちろんいます)。
そういった差異が、例えば徳光第2シーズン第4回でなされた、手取川海瑠と吉田文音のあいだでおきた喧嘩に対して、どちらの肩をもってしまうかというところに如実に反映されてしまったりするわけです。

つまり、「俺は手取川の気持ちが分かるよ」というだけでなくて、「ここは分かるけど、こっちは分からん」とかもっと細かい感想に分かれ始めていて、100%共感しているわけではなくて、分からない部分もある。あるいは、分かるからこそ「そうじゃないんだ」と思ってしまうこともある。

そして、その「分かる」「分からん」に何となく己の人生を反映させてしまっており、

感想を語るときに、自ずと自らの過去や出身地のことも語り始めてしまうのです。

自分の人生や経験を踏まえて、フィクションを鑑賞するというのは、まあ多かれ少なかれあるというか、ある意味では基本的なことです。
子供の頃に読んだ本を大きくなってから読んでみたら、受ける印象が変わっていたとかよくある話です。
ガルラジのちょっと特殊なことがあるとすると、それを思わず語り出したくなるところかもしれません。

例えば、進路のことをテーマにした作品なんてありふれているわけですし、多くの人が10代後半で何らかの形でぶつかる出来事ですから、自分のことを重ねあわせてしまうこともあるでしょう。

ただ、自ずから何か語りだしたくなってしまうほどの作品で、どれくらいあるのでしょうか。

 

ガルラジは、フィクショナル・キャラクターによるラジオ番組であり、フィクションである以上、そこに作為的なシナリオがあります。その点、普通のラジオ番組と比べればドラマチックな展開があります。
しかし、一方で、これがラジオ番組という形式をとられている以上、いわゆるドラマとは異なってもいます。
例えば、番組で流れるのは、彼女たちのごく一部の時間だけを切り取ったものです。リスナーは、ほんの30分、ラジオ番組として放送されている分を聞いているにすぎません。それ以外の時間、彼女たちが何をしているのかは全く分かりません。その、リスナーには決して開示されない時間の流れに、より多くを投影してしまうのかもしれません。
また、ガルラジは、「普通のラジオ番組と比べればドラマチックな展開」とはいえ、多くのフィクションに比べれば全然ドラマチックではありません。まあ、日常系と言ってしまってもいいです。
ガルラジは、作中において期間限定の企画です。登場人物たちはそれぞれの思いを抱えて、ガルラジに参加してきてはいるのですが、そうした思いがガルラジを通じて叶うのかは未知数です。
ガルラジが、彼女たちの人生を何か大きく変えてしまうものになるのかも不明確です。

普通の女子高生や女子大生が、地域のSAに行ってラジオ番組をやる、というのは、ちょっと珍しい経験でしょう。ちょっとした有名人気分も味わえるものかもしれません。

しかし、「誰もが15分は有名になれる」ではないですが、もしかしたらその経験は、人生全体では決して大きなものにはならないかもしれません。それに有名人と言ったって、その規模は正直たかが知れているものでしょう。

彼女たちは、何というか、とても普通なのです。

そして、彼女たちの日々(デイズ)は、ラジオ番組として放送されていない間にも過ぎているし、そしてガルラジが終わった後も、ごくごく普通に過ぎていくだろうと思えるのです。

おそらく、そう感じられるという感覚にまさ「質感」が宿っていて、だからこそ自分たちと地続きなものとしてシンパシーを感じてしまう。

我々の多くは、未知なる敵と戦う羽目になってしまった人のことも、トップアイドルとしてステージに立つことになった人のことも、よくはわかりませんが、「普通」の人生がどんな風で、どのように時間が流れていくのかは知っています。

だからこそ、思わず語ってしまうのかもしれません。

今、「普通」の人生と何気なく書きましたが、一方で、普通の人生も多様です。生まれた場所が異なればそこに宿る感情もまた異なる。

双葉や富士川と、徳光の風景を見比べれば、それが彼女たちのパーソナリティの違いにも繋がっているということが理解しえます。

それはまさに「質感」だし、ガルラジの持っているリアリティの魅力なのですが、僕は、オタクたちの語りにも同じことを少し感じてしまったりもしまうのです。

普通の人生にも多様さがある、ディテールがある、ということを、こんなオタク語りで感じることってあります?

ガルラジには、何か他のコンテンツとは違う妙なポテンシャルがあるんじゃないかという、とりとめもない話でした。