プリズムの煌めきの向こう側へ

二次元アイドル・アニメ・声優あたりの話題中心で、主に備忘用のメモ

ガルラジの「ラジオ番組っぽさ」「生っぽさ」について

ガールズラジオデイズ(以下ガルラジ)というものを聞き始めたので、最初の感想をざっくりと記しておきたい。


ガルラジについて

キャラクターがラジオ番組をやるという企画である。

先行してアニメやゲームがあって、そのキャラクターがやっている(という体の)ラジオというのはままあるが、これはラジオ番組そのものが主体で、元々アニメ・ゲームなどがあるわけではない。

アニメやゲームによって物語を展開する、のではなく、ラジオ番組という形式をもって物語を展開する、というのが、おそらくこの企画の肝である。

単に、キャラクターのラジオ、というわけではない。ラジオ番組によって語られる物語。

 

ちょっと、というかかなり特殊な感じがするのは、高速道路会社であるNEXCO中日本が製作している、という点である。

全然知らなかったのだが、NEXCO中日本はこれまでもなんか色々とコンテンツを手がけているようで、ガルラジはそのラインナップに属するらしい。ここらへんはまだ全然調べていないのでよくわからない。

 

ガルラジは、5つのチームがラジオ番組を配信しているのだが、それぞれ5カ所のパーキングエリアをスタジオとしているという設定になっている。

すなわち、チーム富士川(静岡)、チーム岡崎(愛知)、チーム徳光(石川)、チーム双葉(山梨)、チーム御在所(三重)である。

10代~20代の少女たちがそれぞれパーソナリティとなっているのだが、彼女たちは、ガルラジというプロジェクトに応募してきた素人パーソナリティだ。

彼女たちが自分たちで制作したラジオ番組が放送・配信されると、人気投票などの方法によりポイントがつけられ、順位付けされる。

そして、一定ポイントに到達しなかったチームは解散という、サバイバル企画という特徴も持ち合わせているのである。

garuradi.jp



自分について

個人的には、野村麻衣子さんが出演しているという点で、「聞かないとなー」という義務感は持っていたのだが、「声優ラジオは好きだがオーディオドラマはちょっと苦手」と感じているので、「これ、楽しめるかなあ」というのが、聞き始める前の正直なところであった。

ただ、周囲が「ガルラジすごいぞ」「早く聞いた方がいい」とやけに言い始めたので、ようやく聞き始めたというところである。

最初は、「とりあえずなんでもいいから聞き始めよう」と聞き始めたので、実は結構、ながら視聴で、あまりちゃんと聞けていないところがあったりもする。

2019年1月13日現在、各チームの第2回放送までを聴き、小説とコミックスも読んだところである。

しかし、最新回は、チーム岡崎と富士川の第3回なので、まだ最新回までは追いついていない状況だったりする。

この記事、見ればわかるか、そこそこ長いわけで、「あ、こいつ、めっちゃハマってるんだなー」と思われることだろうが、自覚的には、実はまだ「ハマった」「刺さった」感触は持っていない。

それよりも「なんかすごいことをやっている感じはするのだが、説明しにくいすごさなので戸惑っている」という方が、自分の感覚に近い。

戸惑いながらも聞きながら、「早紀さま天才w」「やっぱ、えーでちゃんと野村さんええわー」「意外とチーム双葉好き」とか思うようになってきたところ。

 

 

「ラジオ番組っぽさ」という特徴 

さて、実際聞いてみての感想を一言でいうと、「かなりラジオ番組っぽさのあるオーディオドラマになっている」である。

このガルラジというコンテンツの、一聴したところで感じた「よさ」「すごさ」は、この「かなりラジオ番組っぽい」というところなのだが、それゆえに、これをどう説明すればいいのかということに頭を抱えてしまったし、そもそもこれどうやって作っているんだ、という謎も抱えてしまった。

 

非常にわかりやすいところからいうと、時折台本を「噛む」ところだろう。

普通のアニメやオーディオドラマであれば、NGテイクになるところを、あえてOKテイクにしているようである。

こうした時、キャストの素の反応と感じられるようなリアクションを聞くこともできる。

普通のラジオ番組は、生であれば、当然噛んでもカットすることはできないし、収録であっても、特に編集はせずにそのまま放送・配信していることはよくある。

その意味で、こうした「噛む」などのミスがそのまま配信されているというのは、ドラマではないラジオ番組っぽさを感じさせる特徴の一つだといえるだろう。

ただ、これは、ラジオ番組っぽいオーディオドラマであることを説明するのに、とてもわかりやすい事例ではあるのだが、「すごさ」の説明にはなっていないし、ガルラジの特徴の説明としても不適切である。

 

ガルラジは、ガルラジというフィクションの中に登場するキャラクターがやっている架空のラジオ番組、というコンテンツである。

で、当然ながら、このキャラクターを声優が演じている。

「噛む」というのは、声優側のミスである(おそらく)。上述した通り、そこで聞こえるリアクションも、声優側の反応のように聞こえる(ところがある)。

このように説明した場合、キャラクター=フィクション=ドラマに、声優=実在=ラジオ番組っぽさが混入している、というように捉えられてしまうだろう。


「ドラマにラジオ番組っぽさが時々混入してくる」というのは、ガルラジの特徴だと思うが、「フィクションに現実が時々混入してくる」というのは違う。


別の事例を挙げよう。

パーソナリティの一人が話している際に、別のパーソナリティが何気なく「はい」と相づちをうっているという箇所があったのだが、このときの相づちのタイミングや声の大きさなどが、非常に自然というか、本当に何気なく入れられたという感じでできていて、すごくラジオ番組っぽい、という感触があった。

そして、同時に思ったのは、この「はい」は、果たして声優に渡されている台本に書かれていた「はい」なのかどうか、という疑問だった。

先ほど、「噛む」事例の説明の際に、声優の素の反応が聞けると書いたが、実際のところ、ガルラジにおいて声優は、終始キャラクターを演じている状態を維持しているようにも思われる。

このあたり、あまりじっくり意識しながら聞いているわけではないのだが、今あげた「はい」といった相づちも、おそらくキャラクターとして相づちをうっているのであって、演技していない素の状態で思わず相づちをうってしまったわけではないのではないように思えた。

つまり、先ほどの「噛む」は、おそらくキャラクター自身が噛んだわけではなく(つまり、台本に「ここで噛む」といった指示があったわけではなく)、本当に声優自身のミスとして噛んでしまったのではないかと思われる事例なのに対して、そうではなく、キャラクターとして演じている状態を保ちつつ、しかし、ドラマ台本を読んでいるのとは違った、ラジオ番組っぽいリアクション等が随所に聞かれるのである。

正直、これめちゃくちゃ説明しにくいし、ガルラジを聞かずにこの文章を読んでいる人も、いまいちよくわからないと思う。

 

それから、この「ラジオ番組っぽさ」が、台本、演出、声優のアドリブのどのレベルで生成されているのかが全然わからない。

先ほどあげた相づちの「はい」のようなものだが、台本に書かれているとは思えないし、逆にもし書いてあったら、その脚本家のラジオ番組エミュレート能力の高さが怖ろしすぎる。

現実的には、声優側のアドリブによるものと考えられるのだが、しかし、普通に台本を渡して「あとはラジオ番組っぽくやってね」という指示だけでこれができるだろうか。というのも、普通のラジオ番組経験がまだあまりないであろう声優も出演しているのだが、そういう人でも同様の事例が聞かれるからだ。また、実際には声優のアドリブに頼っているところが大きいとしても、それをOKとする演出プランがディレクション側になければ、このような形で出てこないはずだし、声優側もやれないはずである。

 

つまり、ラジオ番組っぽさが、ラジオ番組としての枠組みだけでなく、話し方のディティールのレベルによっても再現されており、そのためにどんな研究をしてどのように実現しているのかが、結構想像の埒外にあるのだ。


他作品との比較

キャラクタを演じつつ、生っぽい・素っぽい声優のアドリブが入るコンテンツとして、たとえばてさぐれ!部活もの』などに代表されるダテコー作品をあげることができる。

が、ダテコー作品とはかなり手触りが違うものであることは指摘しておきたい。

ダテコー作品は、台本パートとアドリブパートがかなり明確に区別されており、「あ、ここから台本がなくなったな」というのが見ていてかなりはっきりとわかる。

ガルラジは、そのあたりがかなりシームレスである。というか、おそらくほとんど台本はあって、アドリブパートみたいなコーナーが用意されているわけではない。

ダテコー作品の面白さは、最初、声優たちはキャラクターを演じようとするのだが、台本のない大喜利を繰り返しさせられることによって、否応なく、演技しようがなくなり、本人の素が出てきてしまうところにある。また一方で、そうやって引きずり出された、演技ではない部分を、キャラクターへとフィードバックしていくというところも、ダテコー作品の特徴だろう。

一方で、ガルラジは、そもそも声優自身を引きずり出すということは意図されておらず、演技ではない部分をキャラクターにフィードバックするというようなこともおそらくしないであろう。

演技ではない部分が出ることによって「ラジオ番組っぽさ」を出しているわけではなく、むしろ、生っぽい・素っぽいキャラクターの演技をさせている、という感触がある。

 


キャラクターがやっているラジオという形式で、自分が一番最初に思い出したのは、TVアニメ『サクラクエスト』で行われてた「チュパカブRADIO」であった。

これは、『サクラクエスト』の番組webサイト上で配信されていたもので、ラジオ番組という形式であるが、本編の補完的な位置づけの内容であった。

この番組は、かなりオーディオドラマ寄りというか、少なくともガルラジにあるような素っぽさの演出はなされていなかったように思う。

しかし、聞いている当時、ちかぺこと安済知佳の演技がとても印象に残った点だけは記しておきたい。

彼女が演じている真希という登場人物がもしコミュニティFMで話すことになったらいかにもこういう話し方をしそうだな、と感じさせる話し方だったのだが、その特徴を一言でいうなら「半端な素人っぽさ」である。

喋りそのものは比較的流暢なのだが、マイクの前で喋ることには慣れていないという感じで、具体的にいうと、息や含み笑いなど、プロの収録であればおそらくノイズとみなされるであろう音が入ってくるのである。

他のキャストも、ある種、素人が喋っている風演技をやっているなあとは思ったのだが、声になっていない部分の音でそれをやっていたのは、ちかぺだけだった。

 

ところで、ガルラジに出てくるキャラクターも、みなラジオは初めてという設定だったはずだが、チュパカブRADIOにおけるちかぺのような演技は誰もやっていない。

ちかぺのアレは、なかなか誰もやらないと思う。


「キャラクター的な話し方」と「キャラクターっぽくない話し方」

ガルラジに話を戻そう

ガルラジによって聞くことができるのは、キャラクターによるキャラクターっぽくない話し方なのだ。

有り体に言えば、リアリティをどのように生じさせるのか、という問題であり、

2.5次元の「.5」の部分とは一体何か、という話である。

しかし、類似の企画と、ガルラジが異なるのは、現実の要素を混ぜることによって、それを達成しようとしているわけではない、ということだ。

徹頭徹尾、フィクションであることは維持しつつ、演技・演出のレベルによって「素っぽさ」=「キャラクターっぽくない話し方」をどうにかして導入しようとしているのではないか、と。

だから、ガルラジについては、声優本人の素が時々出てくるところが面白い、と単純に評すべきではないのではないか、と思っている。

(ダテコー作品は、声優本人がキャラクターっぽくない話し方をするパート(つまり声優本人の素)を混ぜ込むことで、リアリティも混ぜ込もうとしたと言えるし、おそらくこの手の企画は想像がしやすい。「チュパカブRADIO」のちかぺの演技は、ここでいう「キャラクターっぽくない話し方」に近いものなのだが、「キャラクターっぽい話し方」の中に、異質な演技パターンを入れ込んだものだとも考えられる気がする)

 

もっとも、全てのキャラクターについて、「キャラクターっぽくない話し方」ができているわけではない(し、それ自体は必ずしも問題でもない)。

チーム岡崎は、3人ともキャラクター的な話し方をしていると思う。

もっとわかりやすいところでいうと、チーム富士川の新田ひより演じる白糸結、チーム双葉の赤尾ひかる演じる玉笹花菜なんかも、終始キャラクター的な話し方をしている。

キャラクター的な話し方、というのは、キャラクターの演技をしている、というのを感じさせる話し方である。ある意味で、「わざとらしい」話し方である。念のため注意しておくと、ここで「わざとらしい」と称する話し方は、決して「下手な演技」という意味ではない。オーディオドラマやアニメであれば、むしろ求められる話し方である。しかし、実在の人間は、あまりああいう話し方はしない。そういう意味では「わざとらしい」。

これに対して、チーム富士川春野杏演じる年魚市すずや山北早紀演じる金明凪紗、チーム双葉の篠原侑演じる玉笹彩乃あたりは、「キャラクターっぽくない話し方」を結構している。

特に、春野杏なんかは、このクオリティがちょっととんでもなくて、驚く。

これ、キャラクターパートが終わって、最後に、声優本人として収録の感想を話すパートになると、春野杏本人の話し方とかなり近いが故なのだな、というのは分かるのだが、それにしたって、というところはある。

春野、山北はともに、キャラクターと自身が似ているということを話している。

ただ、キャラクターと自分自身が似ていることと、話し方や声の発し方も同様になるというのはまた別のことのはずである。

チーム御在所もまたなかなか面白いところがあって、佳村はるか演じる穂波明莉なんかは、白糸や花菜と同じで、非常にキャラクターっぽい、わざとらしい話し方をするキャラクターではある。ではあるのだが、時々、やはり「キャラクターっぽくない話し方」が垣間見える。そしてこれが、明莉なのか佳村はるか自身が漏れ出てしまったのかが、結構分かりにくい。

いや、ガルラジという企画の性質上、この二つは、原理的に分かりにくいのであって、佳村はるかだけが特に分かりにくい、というわけではないはずなのだが、しかしやはり、佳村はるか(ならびに小澤、松田)はこの点、なんか声優とキャラクターを行き来しているように感じられる。


(追記:2019/01/14)

岡崎と富士川の第3回を聞き終わった

チーム岡崎は、3人ともキャラクター的な話し方をしていると思う」と書いたが、岡崎も「キャラクターっぽくない話し方」がないわけではない

 で、これを確認したというか、台本に「噛む」ことが書いてある部分が、二兎春花の場合、結構あるというのがわかったのと、しかし、台本に書いてないっぽい「噛む」もあったかな、という感じ

逆に、春野杏が演じる年魚市すずも、キャラクター的な話し方をしているじゃないかと言えば、これも結構してる。

(追記終わり)

 

ここで何度も繰り返し出てくる「キャラクターっぽくない話し方」とは一体何なのか、というのは非常に説明しにくい概念なのだが

既に上述したような合いの手であったり、語尾の処理であったり、笑い声であったり、とっさのリアクションだったりする。

ところで、上では、「噛む」は声優本人のミスであり、演技ではない素の部分だ、と書いた。

しかし、ガルラジを聴いているうちに、「噛む」すら、台本に書かれているのではないか、と思ってしまうような瞬間に出くわすことがある。

考えてみれば、声優は演技で噛むこともできるわけだから、「噛む」は声優の素だ、などというのは思い込みに過ぎないのかもしれない。

こうした「キャラクターっぽくない話し方」が、しかし、あくまでも「キャラクターによって」話されているのだ、ということが維持されているのである。

いやしかし、そんな風にあらゆるディテールや空気感をコントロールできるものなのか、とそういう謎に出くわしてしまう。


ガルラジが描く物語

チーム徳光は、5チームの中、唯一パーソナリティが一人しかいないチームである。

このため、前述したような「ラジオ番組っぽさ」という部分は少ない。つまり、「噛む」こととそれに対するリアクションとか、相づちなどの空気感などはないのだが、それにも関わらず、何ともいえない生々しさをまとっている。

 

第1回を再生すると、突然「みるみるだよ~」という、いかにも萌えキャラみたいな声が聞こえてくる。

長縄まりが演じる手取川海瑠というキャラクターがパーソナリティなのだが、海瑠は、みるみる星のプリンセスみるみるというキャラ付けで番組を行っているのである。

しかし、聞いていると、海瑠がみるみるというキャラを無理してやっているというのが察せられ、聞いていて、なんともいえないおかしみと痛さを覚えるのである。

これはひとえに長縄の演技によるところだとは思うのだが、他のチームの「キャラクターっぽくない話し方」とはまた別の方向から、キャラクターに生々しさを与えるものとなっており、手取川海瑠の懊悩が伝わってくるものとなっている。

さて、第2回の展開などは、まさしくフィクションでありドラマである。普通のラジオ番組を聞いていても、なかなかこういうハプニングに出くわすことはないわけで、その意味で「お話だなあ」と感じるところである。

 

追記(2019/01/15)

チーム徳光をもう一度聞いていたのだけど、「キャラクターっぽくない話し方」はある。掛け合いこそないものの、やはり「噛む」とかはあるし(でも、たぶんこれは台本に書いていある「噛む」だと思う)。

第2回後半の、海瑠になってからの、ちょっと嬉しい感じで、でも急に緊張してきて、一つ一つ喋っていく感じところの、話し方に滲むリアリティはなかなかすごい。

1人ラジオっぽいし、素人っぽい

追記終わり

 

手取川海瑠という少女がどのように成長していくかというプロットが、おそらくすでに用意されているのだろう。

やはり、ガルラジは「ラジオ番組」なのではなく「オーディオドラマ」なのである。

「ラジオ番組」というのは、あくまでもパーソナリティのお喋りなどを楽しむものだ。

ガルラジも、形式上はラジオ番組であり、パーソナリティのお喋りを楽しむことができる。

しかし、チーム徳光の展開は、そのラジオ番組を通して、手取川海瑠についての物語を聞かされているのだと感じさせるものになっている。

(普通のラジオ番組は、その番組のパーソナリティについての物語を発信しているわけではない)

 

そしてこれ、チーム徳光に限らず、他のチームにもあるようなのだ。

ニコニコチャンネルで読むことのできる小説やコミック、あるいは、公式アプリで読むことのできる「つぶやき」からは、彼女たちの様々なドラマが断片的に伝わってくる。

これは、彼女たちが、どのようなラジオ番組を作っていくのかという物語なのだ。

ラジオ番組のリスナーならみな、ラジオ番組が生き物のように成長していくことを知っているはずだ。

そんな比喩表現を持ち出さずに言うなら、最初は、パーソナリティにもやらされている感があり、リスナーもまた当たり障りのないメールを送っていたコーナーが、次第次第に、どういうコーナーであるのかが、パーソナリティにもリスナーにも分かっていき、そのコーナーの意味が明らかになっていくという過程だ。例えば、その過程の中で、当初、作家が用意したであろう企画内容と、コーナーの内容が変質していく場合もある。しかし、そうやって、パーソナリティとリスナーが一番しっくりするところを探し当てて、盛り上がっていく、というのがラジオ番組の面白みであったりする。

ガルラジは、全6回を予定しているらしく、実際に、現実にいるリスナーとの相互作用でそのような探り合いをしていく時間はない。

この企画の仕掛けであるポイント制ランキングも含め、そもそも最初から台本が用意されているのではないだろうか、ということもなんとなく分かってきている*1

しかし、逆に言えば、どういうラジオ番組をパーソナリティたちが作っていくのか、という過程を、明確なドラマとして聞いていくことができる、ということでもある。

例えば、公式アプリから見られる「つぶやき」には、如実にそれが現れている。

ガルラジは、少女たちの成長物語というドラマを描くのだと思うが、また同時に、ラジオ番組についての物語を描こうともしているのではないだろうか。



ガルラジの魅力は「生っぽさ」だ、と言える。

しかし、そのように言うだけでは、ガルラジの特徴を捉えそこなう。

ガルラジを知らない人が、それだけを聞いたら、「なるほど、2.5次元的に声優のアドリブなんかを入れることで生っぽくしてるのね」とか「なるほど、視聴者参加型にしてリアルタイムな反応を組み入れて生っぽくしているのね」とか言って納得してしまうだろう。

確かにそういう要素はある。

しかし、ガルラジの「生っぽさ」は、構築された・演出された「生っぽさ」なのであって、実際の「生」を混ぜ込むことで見出される「生っぽさ」とは異なる。

そして、「生っぽさ」が目的なわけでもない。

この物語を語るために、この「生っぽさ」を用いているのである。

 

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こんな感じで、次々とガルラジについて書かれた文章が現れてくるので、慌てて書きましたw

 

追記

 

 

 

*1:今後、現実のリスナーの動きと連動していくという側面もおそらく含まれてはいるが。