(注意)ナナシスの話してません!
Tokyo 7thって、行政特区のイメージだと思うんだけど、ライブのOPで流れてのを見ると、道州制っぽくも見えるんだよねー。全国を七つの地区に切り分けていたように見えた。第七東京特区って、東京って名前だけど関東甲信越くらいの大きさなかったか?(一瞬だったので分からないけど)
— シノハラユウキ (@sakstyle) 2015年6月3日
蝦夷特区とか尾張特区とかあった気がする。なぜ旧国名? って思うけど、まあ蝦夷とか使いたくなる気持ちはよくわかるw
— シノハラユウキ (@sakstyle) 2015年6月3日
特区政府と言ってたので、やはり道州制的な側面があるのかもしれない
— シノハラユウキ (@sakstyle) 2019年5月16日
産業を特化させてるのは行政特区っぽいんだけど https://t.co/aCqxvwfOT9
道州制っぽいよなって話、ブログでしてたかなと思ってたけど、してなかったようなので
アドベントカレンダーで、下の記事を読んで、また色々と思いついたことがあったのでメモる
ルート分岐は2017年ではなく、「蝦夷」が「北海道」になった1869(明治2)年、「琉球」が「沖縄」になった1879(明治12)年など明治時代近辺が妥当であると言える。そして、Tokyo 7th シスターズの世界の日本は、現在私たちが住む日本よりも帝国色が強いと言えるだろう。未だに沖縄や北海道を植民地のように扱えているということは、第二次世界大戦で敗けていない可能性すら出てくる。
という説を唱えていて、これはこれで結構面白い。
しかし、自分はむしろ別の説を主張したい。
明治期に歴史分岐している説、それはそれで面白いし盛り上がるんだけど、個人的には別の考えを持っている。
— シノハラユウキ (@sakstyle) 2019年12月16日
前から言ってるけど、ナナシスの特区って行革特区と道州制をくっつけた何かなのではと思っていて、道州制というのは地方分権政策なので、地方の独立性を高めるもの #ナナシスAC https://t.co/DslQDv87UP
独立性の高い地方団体として、県よりもむしろ藩の名前が選ばれたのかもしれんな、と。福岡も藩名だと知らなかったので、尾張が浮いてると思ってたんだけどむしろ一貫してた。
— シノハラユウキ (@sakstyle) 2019年12月16日
で、蝦夷が蔑称であったり、琉球が冊封国であったりとうことは確かにその通りなんだけど、じゃあ、北海道や沖縄という名称に支配-被支配関係のコノテーションがないのかといえばそれはそれで微妙な話で、例えば北海道という島が日本の植民地政策に服したのは、蝦夷地時代よりむしろ北海道時代ではとか
— シノハラユウキ (@sakstyle) 2019年12月16日
廃藩置県も北海道開拓も琉球処分も、明治政府の中央集権政策・近代国家化のあらわれなので、逆に、地方の独立という流れで、それ以前の名称が見いだされる可能性は十分にあるし、実際、琉球ナショナリズムとかあるし
— シノハラユウキ (@sakstyle) 2019年12月16日
あと、地方公共団体の名称として採用するのと、民間が使用するのとでは意味合いが違うだろというのは考慮しつつも、琉球も蝦夷も色々なところで使われているので、そこまで繊細なニュアンスを持つだろうか、というのはちょっとある。
— シノハラユウキ (@sakstyle) 2019年12月16日
琉球は大学も新聞社もあるからなー
現在の実際の使われ方という点でいうと、琉球と蝦夷はだいぶ違うか。琉球は、先のツイートでも触れたとおり、大学とか新聞社とかにも使われて、日常的にも目にする呼び方だろうけど、蝦夷はどちからといえば北海道を異化したい時に使われていて、あまり日常的に目につく言葉じゃない
— シノハラユウキ (@sakstyle) 2019年12月16日
地方団体の名称として琉球を採用すると、むしろ独立というニュアンスが出てくると思うので、件の記事が指摘していたのとはまた別の意味での「繊細な」問題が出てくるよなーと思うんだが、一方、蝦夷についていうと「かっこいいから」で正直納得してしまうところが……
— シノハラユウキ (@sakstyle) 2019年12月16日
これ以上TLにごりごり並べるのもなんなので、ツイートは途中でやめた
なんで道州制なのか
ナナシスの特区制が、道州制そのままかといえばそういうわけでもないと思うのだけど、茂木がナナシスの世界観設定を作る際に、道州制のことが全く頭になかったかといえばそんなことはないと思う。
「ナナシス 道州制」で検索してもほとんど出てこない(というか自分すらほとんど言及していなかった)し、そもそも若い人は*1「道州制なにそれ?」みたいなところあると思うんだけど
道州制というのは度々議論されてきたもので、一番最近だと、2000年代半ば頃には結構話題になっていた。自分にもその記憶があるんだけど、実際、Wikipediaでも1994年の地方自治法改正と、地方分権の決議の採択により議論が高まり、2004年の第28次地方制度調査会が道州制に関する答申を行い、2006年に道州制特区推進法が公布、とある。平成の大合併と呼ばれた時期とも重なっていて、2000年代が終わるとともに議論も終息してしまい、道州制の議論を見る機会はほぼなくなっていった。政府の道州制推進本部も2018年に廃止された模様。
若い人は知らないだろうと上で言ったのも、2010年を待たずして、道州制の話題ってニュースなんかではほとんど見なくなったからで、一方で、ナナシスの特区は道州制なんじゃないかと自分が言っているのは、しかし、2000年代半ば頃はニュースで結構話題にあがっていた話でよく知られていたものだから、というのがある。
茂木は2004年に新卒でソニーに入社しているので、学生時代から新社会人期が、ちょうどその時期と重なっている。ナナシスの構想をいつ作り始めたのかは知らんけど、当然、この時期に道州制のニュース自体には触れていただろうし、ああいう設定を作るにあたって、積極的に意識していたかどうかはともかく、何らか参照していた方が自然だと思う。
ちょっとした参考情報なのだけど、2006年に、東浩紀、桜坂洋、鈴木健の3人が、「ギートステイト」という、2045年の日本を舞台にしたフィクション作品を作っていたことがあって、未来の日本では道州制が導入されているという設定になっている。
つまり、2000年代半ば頃に、未来の日本についてのSFを考えようとした時に、道州制国家として設定するというのは、まあありえた話なのだと。
茂木がギートステイトのことを知っていたかどうかはともかくとして、道州制の未来日本というのはさほど不自然な発想ではない、ということ。
ただ、実際にナナシスの企画が動き始めた2010年代には、道州制なるものはもう死語同然だったので、州より特区にしたのかなーと。
琉球州について
ところで、上述したギートステイトだけど、そこでは沖縄ナショナリズムが2030年代に勃興して沖縄語教育が実施されるようになっている、なんていう設定があったりする。
で、道州制において沖縄がどういう扱いかというと、九州州に組み込む案と、沖縄州にする案とがあって、まあさすがに九州と一緒にするのはどうかということで、後者案が強かったっぽい。
名称としては「沖縄州」案が多数派と思われるのだが、今回、ちょっと検索してみたところ、沖縄道州制懇話会の提言の中で「琉球州」という名称について言及があった。この懇話会も基本的には「沖縄州」という名称を使っているけれど、奄美をどうするか問題の中で「琉球州」もありうるのではないか、みたいな話をしている。
奄美地域については当事者である奄美の人々が区域問題を判断することが前提であるが、沖縄としては沖縄と奄美の歴史的な経緯や共通の自然的・社会的条件等を踏まえ、奄美地域への親近感を持っており、道州制について共に議論し、地域的合意が得られるならば、共に一つの琉球州を構成したいとする意見も強い。
道州制の導入自体が今やあまり現実的な話ではなくなってしまった上、さらにその上、仮に沖縄が州になる場合「琉球州」という名前が採用される可能性となると、かなり低いとは思うのだが、しかし、これが全くありえない話かといえばそうではなく、少なくとも議論の俎上くらいにはあがりそうなラインにはあると思う。
そうなると、RYUKYU-02という名前を考えるにあたって、琉球処分の時代に遡って歴史分岐が起きたと考えなくとも、90年代後半から00年代前半の地方分権議論の時期に歴史分岐があったと考えても、いけるのではないかなーと思っている。
明治期に歴史分岐があったとすると、今の日本とかなり違うと思われるので、それはそれで想像するの楽しいんだけども。
あと、現段階で明かされている情報からでは、どちらの方がより妥当かを判断するのは難しいかなとも思う
(茂木そこまで考えてないと思うよ案件ではあるが、茂木が考えているか否かとは別に、設定が整合しているかどうかから判断するという道はある。ただ、その判断材料もあまりない)
蝦夷について
一方、蝦夷(EZO)に関していうと、これが地方公共団体の名前として日の目をみる可能性はまあないと思う。
指摘の通り、そもそも蔑称なので、というのはある。
道州制の文脈からいうと、北海道は州ではなくそのまま「北海道」でいくというのが主流の議論。
というか、道州制という謎の名称自体、北海道ありきの話。道州制というのは、複数の件を合併し州にして地方自治体によりつよい権限を与えようという話なのだが、北海道は既に面積的にはこれ以上合併しようがないくらいでかいので、北海道のままにせざるをえない。だから「州制」ではなく「道州制」と呼ばれている。また、まず試験的に北海道に権限を委譲してみるという案もあった。
ただ、ナナシスのあれは特区であって道州制そのままじゃないから、というのがあり、名前を北海道以外のものに変える必要がある(という制度だったと仮定する)となって、蝦夷地が案としてあがってきたのかなー。
遡ると、箱館榎本政権のことを「蝦夷共和国」と称することがあるが、あれを北海道の前身と見なすのは難しい。
ところで、蝦夷は確かにある種の蔑称ではあるのだけど、北海道という土地に「蝦夷」という言葉への負の記憶がどれくらいあるのかというと、自分の勉強不足の可能性はあるかもしれないが、あまり思いつかない。
積極的に蝦夷を名乗ることもないが、差別用語的なニュアンスを帯びているかと言われると疑わしい。
Rising Rock Festival in EZOのように使われることもあり、むしろ、北海道を異化するような表現として使われているのでは、という感覚もある。
茂木がなんでその名前にしたのか、というレベルでは、かっこいいから、だと思うけど
— シノハラユウキ (@sakstyle) 2019年12月16日
EZOは十中八九、ロックフェスから名前とったでしょ
ただ、異化表現であるならなおのこと、公的な表現として出てくることはないだろなーという気もする。
ところで、沖縄から琉球へ、というのを、沖縄独立・沖縄琉球ナショナリズム的な流れとして捉えるというのがさほど難しくないのに対して、北海道についてそれを考えるのはいささか難しいところがある。
つまり、北海道の独立や北海道における(民族主義としての)ナショナリズムを考える場合、やはりそこで第一に考えられるべきはアイヌとなるわけだが、道民の多くは和人であって、エスニシティ的に内地との違いはない。いわゆる、ウチナンチュと道産子ではそのあたりに大きな違いがある。アイヌナショナリズムはありえても、道産子ナショナリズムはありえない。
現北海道民の多くは蝦夷(エミシ)の子孫ではないので、蝦夷という言葉に対して、ネガティブな面でもポジティブな面でもあまり意味を見いだすことができないとも言えるだろう。
先ほど異化効果をもたらすと書いたけれど、外国語や古語がエキゾチックな印象をもたらすのと同じようなことかもしれない。
ところで 先ほど、「茂木そこまで考えてないよ案件」と述べたが、こういうのは作者の意図のレベルと、作品そのものが意味しているレベルとは分けた方がよいと思う。
作者が意図したかどうかとは別に、作品が意味してしまうことや、作品内で整合的に成り立つこととかはある。
それとは別に、あの世界の中でどういう理屈がつくのかというレベルがあり、そっちのこと考えたら、そういえばあの世界にはもう1つ別の大きな謎があったんだったということを思い出してしまった
— シノハラユウキ (@sakstyle) 2019年12月16日
ナナシス日本は一体どういう国なのか――もう一つの謎
Owariだけでなく、Sendai、Fukuokaも藩の名前だったというのは面白い。Osakaはちょっと微妙な位置づけにあるが。
実際、このナナシスの特区制のベースに道州制があるとして、道州制とは地方分権政策のことである。
(もっとも、一つの地方が一つの産業に特化することによって、地方分権が果たして行われるのかという疑問もあり、仮に道州制ベースの制度だったとして、ナナシスの特区制度が本当に地方分権にかなうものだったかは謎である。ただ、AXiSに見られるように、東京vs地方みたいな方向性もなんとなくあるらしい、というのは見て取れる。エピソード4.0であまり主題化しなかったのでよく分からないが)
地方分権というのは、中央集権の逆である。
日本において、現在の中央集権化というのは、明治維新以後、近代国家となる流れの中で推し進められたものである(というか、近代国家の特徴の一つが中央集権)。
地方分権というのは、明治から始まった中央集権化・近代国家化の流れを止めて、それを見直すという考えでもある。
そうした制度における地方団体の名称として、江戸時代の名称を採用する、というのことで、幕藩体制に地方分権国家の姿を「再発見」するという思想的意味づけがあったのかもしれない。
そして、このあたりについて考えていくと、ナナシス世界にあるもう一つの謎についても自然と向かっていってしまうだろう。
明治維新とは、日本を近代国家化・中央集権化させる運動だが、その中には天皇親政という政策もまた含まれる(王政復古とは天皇親政に戻る、ということだ)。そして、その流れで、日本国民は天皇の臣民であるという形でナショナリズム(国民国家)が形成されていくことになるわけだが、そこで臣民として同化された対象の中には、アイヌや沖縄の人々もいた。もともと蝦夷地も琉球王国も、江戸幕府の支配下にはなかったわけだが、明治以降、この二つの地域は日本国の領土ということになっていく。
→ 現在では琉球が独立国としてのニュアンスを含むのは私も思いました!
— みんり (@pnk_mgnd) 2019年12月16日
そもそもは冊封体制の中での名前のはずなんですけど、日米に占領されてから相対的に冊封体制の頃の方が独立してたってことになってるんですかね🤔
確かに今も琉球新報はブイブイ言ってますしそこにも言及出来たら良かった…!
僕は沖縄には疎いので、実態としてどうかとか実際にどのような認識がされているのかは分かりませんが、しかし琉球処分、沖縄戦、基地問題などを経てからだと、そうした支配から独立したものとして琉球王国が認識されうるということはさほど不思議なことではないのではないかと、僕は思います。
— シノハラユウキ (@sakstyle) 2019年12月16日
ここについてちょっと補足しておくと、 冊封体制の中で上下関係があることと、近代国民国家の中に位置づけられたことはそれなりに違いがあって、「被支配」というのが強く出てくるのは後者の方ではないかと思う。
蝦夷を北海道に、琉球を沖縄に呼び変えたのは、日本の近代化の一環なのだし、アイヌの同化政策というのは植民地政策の一種なわけで、蝦夷や琉球だと外国だけど、北海道や沖縄という方がむしろ植民地だともいえる。アイヌに関していうと、同化がある意味で「成功」を収めてしまっているので、北海道は完全に日本化したけれど。
さて、先ほども述べた通り、本当に地方分権化として、この特区が機能しているかどうかはよく分からないところではあるが、仮に明治維新以降の日本を作り直すというような意味合いの中で、中央集権を緩める政策として、道州制的な特区が作られ、そのために、明治より前の名前が使われたのだと考えてみるとして、
では、ナナシス世界の日本において天皇はどこにいるのだろうか?
既に知られているように、Tokyo-7thは我々が知っている東京ではない。我々が知っている東京は旧東京で、東京湾を埋め立てたセントラル地区へと中心地が移動している新東京なのである。
ナナシス世界の廃墟になってしまった旧東京を描いた二次創作小説*2 というのもあったりするのだけれど、実際、旧東京が一体どうなっているのかというのは謎である。
さて、新東京の中心地となっているセントラル地区(東京湾埋め立て地域)については、ゲーム内でエリアマップを見ることができる。
東京という街の特徴が、バルトが空虚な中心と呼んだように、皇居という森が真ん中に広がっていることだとすると、新東京も中央に緑地が広がっているのだが、これはもちろん皇居ではなく、kuonjiセントラルパークという公園なのである。
これ、以前気になったことあったんだけど、どうもどこにも書いていなかったようなので、とりあえずここに書いておくことにしよう。
ナナシスの日本、天皇いないんじゃ? というのは自分以外にも言っている人とかはきっといるはずである。
追記
ととかーれちょさん、なんか書いてるやんけ!
■まず一つはこの論考と同じ。蝦夷や琉球という別称から帝国主義、辺境を高圧的に支配する世界観が見てとれること。それは創作者の隠れた権威主義を示していて、強いこと、勝つこと、他者を負かすこと、大きいこと、新しいことを素直に美として捉えるという価値軸が見えてくる。
— ととかれーちょ (@alaalaufufu) 2019年12月16日
作中のセントラルパークが示すところは、天皇がいないということ。これは日本の長い歴史が抱えてきたセンターがいない世界であり、何らかの強烈な変革のあとの効率の良い社会(天皇と権力者という二者が一元化された社会)であることを示していると私は感じている(意図的かどうかはわからない)
— ととかれーちょ (@alaalaufufu) 2019年12月16日
蝦夷や琉球や江戸。歴史で地名を変えたということは時間的な文化の厚みを示し、地域が極端にバラバラだということは空間的な広さを示している。つまりこの歴史用語の使用は日本のスーベニアが充実していることを示しているにすぎない。蔑称ではなくバラエティーとしての江戸や沖縄や蝦夷なのだ。
— ととかれーちょ (@alaalaufufu) 2019年12月16日
★ここからは強い批判なので、読みたくない人は読まないでね★
— ととかれーちょ (@alaalaufufu) 2019年12月16日
自分の所属する国家に対し矛盾した意見を持つなんていうのはみんな同じだが、茂木さんのその発露の仕方はやや右翼的であり、私の思想には合わないと思った次第である。私はこれをナナシスロフトプラスワンイベントで悟った。
この解釈は、かなり的を射ている気がするな
お前、上で言ってることと違うやんけと思われるかもしれないけれど、茂木という人への解釈としてはこれにわりと近いです
効率化云々はあまり考えていなかったところで、天皇いないところをそこに結びつけるのかーというのは、全くなかった観点だけど。
そうすると、道州制も、地方分権云々よりも、地方行政の効率化として目に留まった、という方がありそうな話だし、そう考えると、各地が各産業に特化している点ともそのまま結びつく。
なんで地方が強権化してるはずなのに、各地方ごとにモノカルチャー産業化してんだっていうのは謎だったんだけど、効率化として捉えると筋が通るねーという話だった
スーベニア化っていうのも、Tokyo7thの中に、なんか江戸テーマパークみたいな地区あるもんなってことで納得いく
それはそれとしてだなー、日本が天皇なき連邦国家になっているというのは、それはそれでワクワクするSFだろ、という話で、個人的な趣味としては上で書いたような話が好きというところw
追記に追記を重ねます
ととかれーちょさんの解釈は的を射ているとと思うと書いたけれど、一点やはり違うと思うところがあり、それはみんりさんに対して思うところと一緒なのだけど
しかし、繰り返すけれども、蝦夷や琉球は、日本がまだそれらの土地を支配していなかった頃の名称で、むしろ日本の帝国主義的支配の中で消された・消した名前なので、こうした名前の採用はむしろ逆の意味が出てくるのではないか、ということ
琉球は特にそのニュアンスがある
ただし、繰り返しになるけど、蝦夷にはそのニュアンスはない(今、完全なただの思いつきとして、蝦夷ってまつろわぬ民じゃんとか思ったけど、完全なただの思いつきです)。
その上で、しかし、茂木がどうしてこういう設定にしたかの観点でいくと、効率化とスーベニア化という観点から解釈していった方が整合性高そう、と
作者の意図レベルと作品の意味レベルの話があまり区別できなくなってくるけど、今すぐそこらへん整理できるほどには整合できてない
*1:こういう言い方したくないけどさーw
*2:烏山さん「Fiat modes, pereat ars」ナナフェス4th戦利品 - プリズムの煌めきの向こう側へ